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2012年9月29日 (土曜日)

癒やしたい人の卑しさ

「癒やしたい人の卑しさ」というエッセイ・・・岡知史

いまから書くことは、かなり毒を含んでいる。少なからぬ読者からお叱りを受けるかもしれない。しかし、ここ数日つづけて、それを考えさせられることがあった。
福祉にかかわる者の一人として自戒をこめて書いているのだと大目にみていただきたい。
 それは「癒やしたい人の卑しさ」ということである。「卑しさ」とは言い過ぎかもしれない。しかし語呂が良いから、そうしておこう。
 人を癒やしたいと考えている人がいる。そういう人すべてではないが、そのなかには人として卑しい心持ちをしている人がいるということだ。そういう人は自分では気づいていない。人を救いたい、あるいはすでに救っているという自負があるし、またその姿勢が社会的に評価されていると思い込んでいるから、余計にその卑しさが目立ってくる。
 思いつくままに、そういう人の様子を描いてみよう。
 
 ある人は誰かを癒やしたいと思っているから、自分よりも弱いと思える人を探している。
誰か傷ついている人はいないか、血を流してうずくまっている人はいないかと目を皿のようにして周囲を見回している。
そして、そいう人を見つけたら、嬉々として近づく。
 その前まできたら、心の底からわき上がってくる喜び(人を癒やせるという喜び)からくる笑顔を無理にでも消そうとする。この笑顔を消すことは訓練として学んでいる。
結果として、心配そうに眉をひそめた「作り憂い顔」が浮かび上がる。
普通の人は「作り笑い」しかできないが、そういう人は「憂い顔」さえ作ることができる。

 そして「泣いている人」が、そのままに泣いていてくれたら嬉しいし、まして、自分の胸のなかで大声で泣いてくれたら、これに勝るものはない。
その後で「泣くことができてすっきりしました」と言われたら、
 その脳裏にイエスと荒野に捨てられて泣き叫ぶ人とが出会う絵が重なり、それこそ天にも昇る気持ちになるだろう。「癒やし人」の冥利に尽きるというものである。

 しかし、その泣いていると思った人が思いがけなく力強い声で答えたなら、「癒やしたい人」は戸惑うだろう。
彼は「強い人」よりも「弱い人」を求めている。
ときには「弱い人」を求めるあまり、人の弱いところを暴き出し「ほら、あなたにはこういう弱さがある」と示し出す。それで相手が自分を「弱い」と認めたらそれを喜んで慰め、認めなかったら「強がっている」と非難する。

彼は癒やそうとする相手と自分とは「対等だ」と口で言うものの、慈父あるいは慈母のように一段上から見ているつもりで、本当のところは自分の優位を信じて疑わない。

 そして一度でも自分が「癒やした」と思う相手が、その後どれほど飛躍しても、あれはかつて自分が癒やした者だと公言し、その人がいつまでも感謝し、自分の前に頭を垂れることをどこかで期待している。

言葉と笑顔で癒やすのは、もともとは宗教者の仕事であったはずだ。
そして宗教者は神仏の道具として人を癒やしていたのであり、それを自分の力とは思ってなかったと思う。
 それを自分の知識や技術や才能で癒やすことができると思うから人品の卑しさが際だってしまう。

誰かを癒やしたいと他人(ひと)の涙を探す人に憤っている人は存外、少なくない。
 苦悩を自らのものとして受けとめている人は誰かに癒やされるのを待っているわけではない。
その耐える姿に敬意を払うことが、まずは求められるだろう。

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